Forum033
アジアで最初にノーベル賞を受賞したロビンドロナト・タゴール(RabindranathTagore) は一九一六年に日本をはじめて訪問した後、日本の旅行についての 「ジャパン・ジャトリ」 (日本紀行) という本をベンガル語で書きました。この旅行の本の中でタゴールは俳句も紹介し、ベンガル語の翻訳で芭蕉の二つの有名な俳句を例とし て挙げています。その俳句は
古池や 蛙飛び込む 水の音
と
枯れ枝に 鳥のとまりけり 秋の暮れです。
ベンガル語の翻訳では
プロノプクル ベンゲルラーフ ジャレール シャボド
または ポチャダール エクタカーク シャロトカール
となっています。
タゴールは読者に俳句を紹介するに当り次のように語っています。「世界のどこにも三行詩は存在しない。しかし、日本の詩人と読者には、わずか三行でことたりる・・・日本人の心は泉水のようにごぼごぼ音をたてない 。湖水のように静かである。」 タゴールの日本紀行は、おそらくインドのことばで書かれた最初の俳句についての紹介をした本だと思います。インドはたくさんの言語がある国です。そしてそれぞれの言語が豊かで文学的かつ歴史的な伝統をもっています。多くの古いインドの詩型は短くて、深い意味をもっています。たとえば、ヒンディー語のドーハまたはバルウェとか、マラテイ語のオビとか、パンジャービ語のボーリ又はマヒヤとか、タミル語のテルクラルなどがその 例です。サンスクリット語のスートラ (経) も、聖なる教の内容を短い文句で簡潔にまとめたもの、という深い意味を持つ言葉を用いた短い歌と同じものです。このように簡潔な形態の詩のあるものは、俳句に大変似ています。日本での仏教の考え方、または人生に対する禅の教えというものも、インド人の心には異質なものではない のです。インドの詩の内容は、ことばによって直接に表現するのではなく、暗示的に富んだものです。一つの例をあげてみましょう。
1 2 3 4 5 6 7 8 9 ウェ コ エ リ アン ボ ラ デイ アン 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 カ デ ボー ル チャン ダ レ ヤ カ ワンー
これはパンジャービ語のマヒアと呼ばれる形式の詩から取ったものです。これを日本語に訳すると
コーエルが歌っているのに
なぜおまえは歌わない
ああ、いじわるな烏
このもとの詩はたったの十八字です。そして簡潔に表現しています。コーエル (オニカッコウ) はマンゴーの木に花が咲きはじめるころに歌うインドの鳥です。この鳥はあまい歌声をしているということで、大変歓迎され ています。そしてまた、春の季節を伝えるのもこの烏です。一方、聞き苦しい声で鳴く烏などだれも聞きたく無 いでしょう。烏もコーエルも黒い鳥です。きょうはコーエルが歌っています。そして、烏は黙っています。でも コーエルの歌声は若い乙女にとっては嬉しくありません。というのも、インドでは烏が恋人のメッセージをもってくるという伝説があります。だから乙女たちは烏に口を開いて欲しいのです。
インドの現代文学は西欧の近代文学の深い影響を受けています。西欧の文学運動はすべてインドの文学界に波及して行きました。俳句もインドの文学の世界に英文学を通して紹介されたものです。俳句の初期の翻訳者の多 くは俳句の簡潔さを重視しないで、十七文字をもとの俳句にない韻律や説明を自由に加えて翻訳しました。それは西欧の読者に、その翻訳をわかりやすくするためでした。もとの俳句がどのように翻訳されているかをここで一つ例を挙げてみたいと思います。
花の雲 鐘は上野か 浅草か
英語の翻訳では次のようになっています。
A cloud of blossoms
Far and near
Then sweet and clear
What bell is that
That charms my ear
Is that Ueno or Asakusa
これを日本語に訳してみますと
花の雲 遠くて近い 甘く澄んでいる
なんの鐘か 私をうっとりさせてくれるのは
上野の鐘か浅草の鐘か
これではもとの俳句の説明文になってしまいます。もう一つの例を挙げて見ましょう。これは芭蕉の句です。
夏草や つわものどもが 夢のあと
ページ (C.H.Page) による英訳は次のようになっています。
Old battlefield, fresh with spring flower again-
All that is left of the dreams
Of twice ten thousand warriors slain
古い戦場 いまは春の花がまた咲いている
夢のあとに残っているものは
惨殺された二万人の兵士達
もとの俳句はこれほど沢山の事柄を言ってはおりません。もとの句の中で示唆しているものを、俳句の伝統に馴染みのない読者のために、翻訳の中で説明しているのです。日本語の知識もなく、また、もとの俳句に直接に接することもなしに、インドでの俳句に対する関心は、このような翻訳を通して始まり、発展していきました。インドの詩人の幾人かは、インドの言語で俳句とおなじような短い詩を書き始めました。一九五〇年代に、短くて、しかも豊かな表現力に富み、形式は自由という、新しい 詩の形式が生まれ、発展しました。ヒンディー語の短詩から、いくつかの例をあげてみましょう。
最初の夕立
空は根を
地に投げつける
蝶々は
花から花へ飛んでいく
春の神のラブレター
雲の中の月
隠れん坊をして
穴を探している兎
左の詩は詩人の目から見た飛行場のことです。
セメントの湖
遠く広く広がっている
アルミニウムの白鳥が泳ぎ
そして 飛びたっていく
当時、インドでは政治的、また社会的に変化が多く、不安な時代でした。この形式の詩は社会風刺や機知を主なテーマとして、いろいろな名称で流行しました。
俳句に興味を持った多くのインドの詩人たちは、俳句をそれぞれ自分の言語に翻訳して紹介しました。そして、自分の言葉で俳句を書き始めることさえしました。しかし、彼らの詩のほとんどは五・七・五と言う韻律を守らず、季語も無視したものでした。このような作品が俳句として出版されているのは、詩人たちがその詩を俳句 と名付けたからでした。一九五〇年代にはインドの多くの文学雑誌が、俳句についての紹介論文や、俳句の英訳からのインド語訳を記事としてよく載せていました。ここでインドの各言語の中で俳句がどのように扱われているかをみてみましょう。
(1)アサーミー語
アサーミー語の詩人ニールマニ・フコン (Neelmani Fukan) は日本の俳句をアサーミー語に翻訳し、「ジャパニ・ カヴィタ」 (日本の詩) という題で一九七一年に出版しました。この本の中には俳句を含めて、七十三人の作品 、九十三篇が紹介されています。紹介された俳人は守武、芭蕉、嵐雪、来山、鬼貫、其角、凡兆、蕪村、良太、蘭更、一茶、子規、句仏などです。本の前書きはヒレン・ゴサイ博士(Dr. Hiren Gosai) が書いたもので、日本詩の美意識についての学問的な緒論となっています。翻訳は原作に忠実で、もとの俳句の簡潔さをとどめてい ます。
(2)ベンガーリー語
タゴール (Rabindranath Tagore) の日本の旅行記についてはすでに述べましたが、タゴール自身は二・三行の詩も多く書き、このような詩を"Sphuling" (火花) という題の作品集で発表しています。タゴールはこのような詩を書くに当たり、俳句からどのくらいの影響を受けたかを知るのは難しいですが、このような詩のほとんどは一九二四年に彼の二度目の日本旅行中に即興的に書かれたものです。「タゴール著作集」 第二巻に、この詩集の日 本語訳が 「螢」 という題で収録されています。森本達雄氏は後書きの解題の中でこの詩について次のように書いています。「一九二〇年五月から一年二ヶ月にわたって、タゴールはふたたびヨーロッパからアメリカへ、ついで二四年三月から七月にかけて中国・日本を訪れた。中国や日本では、行くさきざきで『扇面や絹布に揮亳所望 される』 と、詩人は多くは即席で、短詩 (ここには、多分わが国の俳句の影響がみられる) を書いて求めに応じたが、それらはまぎれもなく詩と叡知の飛び交う火花であった。」"Stray Birds"という題で出版された、この詩集の英訳をタゴールは 「 横浜のハラ氏 」 に献げています。この詩集の中の一つの詩は日本についての詩人の 印象をこう語っています。
ああ ジャパーン 汝の海は落ち着かない
陸地は穏やかで
山々は険しく密集している
公園はやさしい緑色
日本は確かにタゴールの心の中に深く影響を与えていることに違いがありません。タゴールの短詩の中から二つの例をあげてみましょう。
天から雨のキッスが降る
大地はそれに応える
花々を咲かせて
蝶には蓮の花を愛する暇がある
蜜をいそがしく集める蜂に暇はない
タラプロサド・ダース博士 (Dr.Tara Prasad Dash) はフランス文学者であり、ベンガール語で五・七・五調の詩を書き、インド・ハイク・クラブの 「ハイク」 という機関紙に、定期的に発表しています。彼の多くの俳句はフランスを訪問した際に書かれたものです。その一つの例をあげてみましょう。
冬の夜
寒い風が吹く
物悲しい
(3)グジャラーティー語
グジャラーティー語の作品で有名な詩人スネハラシュミー (Snehrashmi) は、グジャラーティー語でもとの俳句 の精神や雰囲気を持ち、形式としても俳句に大変近い詩を書くことに成功しました。彼は厳密に五・七・五調をまもっています。そして、グジャラーティー語で書く他の詩人たちの手本となりました。詩集 「ルペル・チャンダ ルヌ」 (銀色の月) や 「ダーバ・ハトノケール」 (左手の遊び) はいろいろな詩人たちがグジャラーティー語で書 いた俳句の作品集です。「ダーバ・ハトノケール」 という題は 「左手でも出来る簡単なこと」 と言う意味で、この詩人たちが俳句を戯れの作品として扱っていることを示しています。また、ニランジャヌ・バガト (Niranjan Bhagat) やカマル・プンジャニー博士 (Dr. Kamal Punjani) のように、真剣にグジャラーティー語で俳句を書いている人たちもいます。スネハラシュミーの最初の作品集 「ソネリチャンド・ルペリスラジュ」 (金の月と銀の 太陽) は一九六七年に出版されました。この中には三五九篇の俳句と、三篇の短歌形式の詩が紹介されています。すべての詩には背景に淡彩のスケッチが描かれ、詩人自らが書いた俳句に関する二十二ページにわたる緒論が本の後書きとして収録されています。彼の二番目の作品集はグジャラート州文学アカデミーによって一九八八年 に出版されました。これは三つの言語、即ち英語とグジャラーティー語とヒンディー語で書かれたもので、"Sunrise on Snowpeaks"という題のもとに三〇四篇の俳句が紹介されています。もとの作品はグジャラーティー 語でしたが、それぞれの詩は英語からヒンディー語に翻訳されたものです。ヒンディー語の翻訳はバガワトサラ ヌ・アガルワール博士 (Dr. Bhagawat Sharan Agrawal) によって訳されています。アガルワール博士はグジャラ ート大学でヒンディー文学の教授であり、自らもヒンディー語で俳句を書きます。英語の翻訳は作者自身が行っています。すべての詩は五・七・五の十七文字の形式がまもられ、ヒンディー語の翻訳もこの形式になっています 。いくつかの作例を紹介しましょう。
山また山 登ってみれば 山ばかり
近づけば 山は小さく 丘は大きく
山の中 空も隠れて ただ一人
(4)カンナダ語
カンナダ州文学アカデミーの機関誌の編集長、ラリタンバ (Mrs V.Lalithamba) はたくさんの俳句をカンナダ語に翻訳しています。インド国文学アカデミーのバールラオ (Balurao) は自由なスタイルで独自の俳句を発表しています。
(5)マラーティー語
マラーティー語の文学雑誌 「リチャ」 (Richa 「リグヴェーダ」 の詩) は一九七八年に俳句についての特集号を刊 行しました。その中ではマラーティー語の詩人シリシュ・パイ (Shirish Pai) が、紹介記事を書き、サダナンダ ・レゲ (SadanandaRege)、ヴァサンティ・マジュームダール (Vasanti Majumdar) 、ウシャ・メホタ (Usha Mehta) 、シリシュ・パイ (Shirish Pai) など多くの詩人たちの書いたマラティ語の俳句が紹介されました。週 刊誌 「ロクサッタ」 (Loksatta 民主政権) もまた、一九八一年七月五日付で、俳句の特集号をだしました。この号は芭蕉、鬼貫、蕪村、一茶を含む十七人の日本の俳人の作品の翻訳を載せています。そして、リチャ・ゴドボ レ (Richa Godbole)、アンワヤ・ムロガオンカル (Anway Mulgaonkar)、マノハル・トドケル (Manohar Todkar) などの詩人たちによって書かれたユニークなマラティ語の俳句も紹介されました。シリシュ・パイは俳句について沢山の紹介文を書き、翻訳をし、俳句をマラティ語で大衆化するのに大きな功績がありました。シリシュ・パイの俳句集は 「シルヴァ」 (Shruwa 儀式に使う匙) という題で出版されました。マラティ語の俳句のほとんどは三行の短い詩ですが、どの行も長さやシラブルなどの規律は守られていません。ナレシュ (Naresh) は有名な俳句の風刺的なパロディを書きました。これはマラティ語の川柳とも呼ぶべきものでしょう。スレシュ・マトル (Suresh Mathur) は五・七・五の代わりに七・九・七文字の形式を使って詩を書くという試みに成功し、この形式はマラティの語法にうまく適合していると述べています。そしてこれをマラティ俳句と呼んでいます。その作例の 一つをあげてみましょう。これを音韻数に分けて書くと次のようになります。
1 2 3 4 5 6 7 8 9 ア ダ ト エ コ ドァ ド バ ナ サ ヤ レ ラ ピン パ ラ ヴィ カ タ ハン サ ト ヤ
腕白なピーパル
茶目っ気たっぷりに笑う
井戸の中
ピーパルはインドの木で、村人がよく使う井戸の中の壁に根をおろして茂っています。この木はインドの村民にとって神聖と考えられているので、不都合な場所に生えていても切れないのです。ですから、好きなほうだいに茂り、いたずらっ子のように笑っています。リチャ・ゴドボレ (Richa Godbole) は十才の時に自然について書いた短い詩の作品集で有名な文学賞を受賞しました。彼女の詩に添えて著名な芸術家が描いた絵は、一九八一年にボンベイの美術館で展示されました。ヒンディー語に訳した彼女の詩と俳画のように書き添えられた絵はヒンディー語の週刊誌 「ダルマユガ」 (Dharmayuga 道徳時代) の一九八一年十一月十五日号に載せられました。多くの文学評論家達は彼女の詩を 「俳句」 と呼び、評論にとりあげました。ここでシリシュ・パイの俳句の例をいくつかあげてみましょう。
雨が止んで バナナの葉の中から 蝶々が飛んだ
汽車が速い 途中で咲いている花も 見る暇がない
小さな鳥 庭の中から鳴いた 心は歓喜に満ちた
(6)パンジャービ語
インドで最も有名なギャナピート (J n a n a p i t h a ) 文学賞を受賞した著名な女流詩人、アムリタ・プ リタム (A m r i t a P r i t a m ) は、「ナグマニ」 (N a g u m a n i ) という文学雑誌の中で俳句を数 句パンジャービ語に翻訳して紹介しました。俳句とパンジャービ語の詩 「マヒヤ」 の 比較研究についての私の 書いた文章が 「パランパラ」 (P a r a m p a r a ) というパンジャ ービ語の文学雑誌の一九七九年十二月号 に出ました。ニューデリーにある国立の外国語学校の前校長であるサトヤナンド・ジャヴァ博士 (Dr. Satyanand Java) は、パンジャーブ地方の文化の特質である情熱や活気を俳句の形式で表現しました。彼はパンジャービ語、ウルドウー語、ヒンディー語そしてシンディー語で俳句を書いています。モハヌ・カティヤール博 士(Dr. Mohan Katyal) やウルミラ・コール (Urmila Kaul) もパンジャービ語で俳句を表現しています。ジャヴ ァ博士の二つの俳句を例としてあげましょう。
収穫期 孔雀のように歩く 村の少女
パンジャーブのジャート達 バンゴラを踊る ベサキの祭
ベサキはパンジャーブ地方の豊かな農作物の収穫を祝って四月中旬に行われる祭です。ジャートとは主に農耕に従事しているパンジャーブ地方の民族で、バンゴラはパンジャーブ地方の男だけが踊る有名なフォークダンスです。
(7)シンディー語
シンディー語の詩人は俳句にインドの伝統的な詩の形式、ドーハを修正した形式を俳句に取り入れています。ドーハの韻律は一三 −一一−一三−一一のマトラーで、マトラーは一つの母音の発音する時間の長さの単位です。シンディー語の詩人はドーハの一三−一一−一三マトラーの部分を取って、それをシンディ俳句と呼んで使 ったのです。詩人ナラヤナ・シャム (Narayana Shyama) や、クリシュナ・ラーヒ (Krishna Rahi) はシンディー語のこの形式を促進しています。この形式でかれらの俳句は 「マク・ビナ・ラヴェル」 (Mak Bhina Ravel)、それから 「クランチ」 (Kulanch) という題の詩集の中でそれぞれ収録されています。モティラール・ジョトワニ博士 (Dr. Motilal Jotwani) はシンディー語文学評論家で、詩人でもあります。ジョトワニ博士は彼らの詩を、同じ 韻律でヒンディー語に翻訳しています。彼はナラヤナ・シャムとクリシュナ・ラーヒの作品がシンディー語の言い回しに合うように新しいリズムを与えたと述べています。ヒンディー語アギェーヤ (Agyeya) はギャナピート (Jnanapitha) 文学賞の受賞者であり、ヒンディー語で作品を書く代表的な詩人でした。彼は一九五一年に次の ような三行詩をつくりました。
鳥は飛んで行った 木の葉が震えて 落ち着いた
アギェーヤはこの三行について次のように書いています。「実際に起こった事は、私が言葉にそれを書き留めるだけの時間もなかった。鳥は木の葉に触れ、おそらくなにかに怯えて飛び去った。私はその瞬間を捉えようとした。けれども、その瞬間はまるでなにかまだ完成していないもののようで、私は心の中の感情にとらわれた。」 一九五 九年に詩人は日本を訪問しました。そこで彼は禅の公案について研究しました。帰国後、彼はたくさんの俳句を ヒンディー語に訳しました。そして、突然、彼が不完全だと思って置いてしまった三行が実際には完成している ということに気がついたのでした。この三行は後に詩として次の詩集の一つに収録されました。「アリ・オー・ カルナー・プロバマイ」 (Ari O Karuna Prabhamayi ) と呼ばれ、一九五九年に出版されたその詩集のなかには 俳句の翻訳も含まれています。序文にも俳句が紹介され、次のように述べられています。「俳句は西欧よりも、わたしたちにより近いものでしょう。また、わたしたちの詩的感性に大変近いものです。」 東京外国語大学のヒンディー語文学の田中敏夫教授は 「アギェーヤは俳句の外国語の翻訳に一番成功した翻訳者である。」 と言っています。アギェーヤは日本語がわかりません。しかし日本人の友達の助けを借りて翻訳された詩の深いところまで理 解しようとしました。ときには、勝手な翻訳も加えますが、美しい詩に翻訳することに成功しました。彼はもとの意味を伝えることが難しい語句や、翻訳によってもとの意味からあまりにも離れてしまう、と考えた詩を日本 の俳句に影響された、または着想を得たものと呼びました。翻訳以外にアギェヤは自分でもたくさんの俳句のよ うな詩を書きました。その詩のいくつかは詩集 「アリ・オー・カルナー・プロバマイ」 の中に集められ、また別の詩集の中にも収録されています。日本の鳥居についての彼の詩の一つを紹介しましょう。
神社も寺も見えない 像もあるかもしれない
雲を越えて天空に聳えている
赤い鳥居
俳句をヒンディー語に翻訳するもう一人の有名な学者はプロバカル・マチュウェ博士 (Dr. Prabhakar Machwe) です。彼はインド国文学アカデミーの前事務局長であり、有名な作家です。彼は最初、一九六〇年に出版された著書 「インドとアジアの文学」 の中で俳句を紹介しました。日本を訪問した後、彼は二五〇句の俳句 をヒンディー語に翻訳しています。
俳句は広く論じられ、そして一九六〇〜七〇年代にはヒンディー語によく翻訳されました。サトヤ・パール・チ ュグ博士 (Dr. Satya Pal Chugh) はヒンディー語でいくつかの俳句を書きました。そして、彼の詩集にその俳句は収録されています。彼の最初のころのスタイルはアギェーヤの影響を受けたものでしたが、後に彼は自分自 身の独自なスタイルを作り上げ、五・七・五の形式に従っています。彼の詩集の一つである 「ワーマヌ・ケー・チャ ラヌ」 (Vaman Ke Charan 一寸法師の足) の中の一部に、俳句という見出しをつけて自作の俳句を載せています 。彼はいくつかの美しい詩を書いていますが、彼のほとんどの俳句は言葉の遊びが中心になっています。
私は一九七七年に俳句と短歌のヒンディー語の翻訳を出版しました。本の左のページは日本語で書かれた俳句 や短歌で、ふりがなはヒンディー語のデヴァナーガリ文字です。右のページの上の半分にはその俳句や短歌がデ ヴァナーガリ文字で、下の半分にそのヒンディー語の翻訳を載せています。この本は日本語の活字を使って、もとの俳句を直接インドの言語に翻訳したという点で、おそらくインドではじめてのものだと思います。前書きは 俳句と短歌についての紹介論文になっています。本の最後の部分に、この本でとり上げた俳人や歌人の紹介をし ています。私の二冊目の本は俳句についての紹介論文で、一九八三年に出版されました。このような私の本はインドで俳句について新たな関心を引き起こしました。一九七八年にはインド・ハイク・クラブが設立され、このク ラブの活動の一つとして二ヶ月ごとに 「ハイク」 と呼ばれるヒンディー語の機関紙を出すようになりました。機関紙はヒンディー語で書かれた俳句や他のインドの言語で書かれた俳句のヒンディー語訳を、デヴァナーガリ文字で出すというものになりました。またこの雑誌の中にはインドで出版された俳句集の書評や読者の意見、また編集者による評論なども載っています。カリーカット大学のゴーピーナートン教授の言葉によると 「この機関紙はヒンディー語をインドのあらゆる言葉の連結語として使って、インドの俳句運動に主な役割を果たしている」 とのことです。このクラブの会員はまもなくインド全土で四〇〇人を超すことになりました。一九八九年にはヒンディー語の俳句の代表的な詩集を 「ハイク一九八九」 という題で出版しました。この詩集では各詩人が七篇の俳句を紹介し、合計三〇人の詩人が紹介されています。その例をいくつか紹介してみましょう。
新婦の
額の上に
秋の月
プルショッタム・サトヤプレミ (Purushottam Satypremi)
(土井久弥訳)
寺の中
鐘鳴り渡り
そと悲鳴
ヴィドヤビンヅ・シング博士 (Dr. Vidyanindu Singh)
(土井久弥訳)
サーワンの
祭に揺れる
青葉かな
ヴェダギャ・アリヤ博士 (Dr. Vedagya Arya)
(鈴木良昭訳)
この十年間、俳句についての何冊もの作品集がヒンディー語で出版されています。その中には、バガワトサラ ヌ・アガルワール博士 (Dr. Bhagwat Sharan Aggrawal) の 「シャーショワト・クシテイジョ」 (Shashwat Kshitij)、スダー・グプタ博士 (Dr. Sudha Gupta) の 「クシュブー・カー・サファル」 (Khushbu ka safar)、ラコ シャマン・プロサード・ナイク博士 (Dr. Lakshman Prasad Naik) の 「ハイク五七五」、ゴービンド・ナラヤヌ・ミ ショラ (Govinda Naraina Mishra) の 「テイルベニ」 (Triveni)、サテイシュ・ヅーベ博士 (Dr. Satish Dube) の 「マールヴィ・ハイク」 などがあります。マーリヴィはヒンディー語の中の方言の一つで、マールヴィ・ハイク とはその方言で書かれた俳句集です。「ラコリー・カ・サポナー」 (Lakari ka sapana 木の夢) という題のスダー・ グプタの二冊目の句集や、ヴィドヤビンヅ・シング博士 (Dr. Vidyabindu Singh) の句集が目下印刷中です。ラ デシャーム (Radheshyam) はインドの神話をテーマに二千句もの俳句を書き続けています。
インド・ハイクは俳句の簡潔さと形式を守ろうとしていますが、特別な思想とかイデオロギーとは関係していません。インドの俳句はテーマや経験をインドに求めるものです。インドの伝統やインドの文化的な考えに立脚して俳句の主題というものを捉えています。現代インドの政治の不安定さや暴力沙汰も、インド・ハイクの主題 にとり上げられ、川柳のような風刺もよく表現されています。俳句という名でインドで書かれているすべてのものが、本当に俳句と呼べるものかどうかはまだ議論のある問題ですが、五・七・五調の形式で書かれたものは俳句と名づけられています。
インドでは俳句についてますます関心が高まっています。この俳句の人気は、商業的な広告にまで使われるようになって来ています。サリーのある製造者は、サリーを 「俳句サリー」 と名づけたくらいです。しかしこのサリーは美しいかもしれませんが、長さは決して短くありません。
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