2012年3月12日月曜日

少女マンガの文学性

少女マンガの文学性

これは1998年10月30日に発行された臨時増刊『木野評論』の「文学はなぜマンガに負けたか!?」という題のついたマンガ特集に載ったワタクシメの小論です。皆さんにその本をお買いになっていただきたいと思い(笑)、今までアップロードするのを遠慮しましたが、本が出てからもう半年になるし、そろそろいいんじゃないかと思ったわけです。本の宣伝にもなるかも知れないし。(今も書店に置いてありますよ!)日本語で論文を書くのは初めてだから、かなり緊張しました。読み返すとやっぱり「そこをそうじゃなくてああ書けばよかった」などと余計なことを考えたりもします。
ちなみにボールドになっているところは元の本では傍点がはってあったけれども、HTMLでは傍点ができないため仕方なくボールドで強調しました。(何だか感じが違いますよね)
ご感想を聞かせてくださいね!

 今でこそ「文学性とは何か」と聞かれたら「分かりません」と答えてしまうが、10数年前、熱血文学少年だった頃、同じ質問をされたらおそらく「深みだ」と、一言で答えただろう。「深みとは」と聞かれたらきっと途方に暮れただろうが。今回の執筆依頼に「少女マンガ──その過剰なる文学性」という仮題が付いていたが、それを読んで最初に思ったのは、「マンガと文学は全く違う媒体なのに、マンガには"文学性"がなければ存在する意義がないのだろうか」と。次に「"文学性"とは何だろう」と考え出して、バージニア・ウルフやトーマス・ピンチョンにはまっていた大学生のころを思い出した。あのころは自分も作家になりたくてcreative writing(創造的作文)を専攻にしていた。結局、小説家を諦めたが、特にウルフのあの水が流れるような、「深み」のある文章に憧れていた。

 さっき、少女マンガには本当に文学性がないと駄目なのかという疑問を漏らしたが、実は私も初めて少女マンガに出会った時、「これは文学だ!」と感激したのをはっきりと覚えている。友人に薦められて最初に読んだその作品は萩尾望都の名作「トーマの心臓」である。ただ感動したというより、文字どおり人生を変えてしまうような衝撃を受けた。それまで手塚治虫の「火の鳥」や白土三平の「カムイ伝」など名作といわれているマンガをいくつか読んで感動したが、「トーマの心臓」を読んだ時の感動は根本的に違っていた。より直感的だった。そして涙を流している自分に驚き、「なぜ私はこのマンガにここまで動揺しているのだろう」と考え込んだ。

 人間は何か新しいものに出会うと、それまでに教わってきたカテゴリーにあてはめようとする。おそらく当時の私も考え込んだ挙げ句「トーマの心臓」を「literature」(文学)という枠に無理矢理あてはめるしかなかっただろう。特に、「comics」を低俗扱いする社会(アメリカ)で育った私には、自分の感動を正当化するのに「文学」の体面を借りるのが好都合だったのだろう。

 そのあと、竹宮恵子の「風と木の詩」、池田理代子の「ベルサイユのばら」、山岸凉子の「日出処の天子」、大島弓子の「バナナブレッドのプッディング」、紡木たくの「ホット・ロード」...次々と読んでいるうちにすっかりはまってしまった。もちろん、感動しないものもあれば、ハッキリとつまらないと思うものもあった。しかし、とにかく、このすばらしいジャンルを英語圏の人々に紹介したい、この感動を分かち合いたいという気持ちが非常に強かった。何しろ英語圏には女性のためのcomicsなんてほとんど存在しないから。(本論において「女性」とは年令には関わらず全ての女性読者層を指す。)


男性は、カレンダーのようなものです

 しかし、いざ大学院(アメリカのイリノイ大学東アジア研究センター)に入って少女マンガを「文学的」に学問しようとすると、これはなかなか思うようにいかない。何でもそうだが、作品には絶対的な意味なんて存在しない。私が萩尾望都の「ポーの一族」をある意味に解釈しても、他の読者は同じように解釈するとは限らない。この明解な事実は以前からわかっていたが、その障害をどう超えればいいか、悩んでいるうちに修士の勉強は終わってしまった。

 私が知りたかったのは、読者(つまり、日本の女性)にとってマンガはどういう意味を持っているか、生活や人生の中でどういう「場」を占めているか、という点である。それを知るためには当然読者に聞かなければならない、彼女等がマンガと接しているところを観察しなければならない。つまり私がやりたかったのは参与観察に基づいたエスノグラフィー(民族誌)である。分野を東アジア研究から文化人類学へと変えて、コロンビア大学で博士課程の勉強を始めた。

 どんな方法論を用いればいいか考えている時に、日本研究や文化人類学やカルチュラル・スタディーズの本を読みあさったが、意外なことに読者(あるいは視聴者、消費者等々)を直接調査したマス文化論は、統計的な「受容研究」を除いて、ほとんどなかった。文化人類学者がたまにマンガなどの大衆メディアを取り上げると、大体二通りのパターンになる。一つはテキスト分析であって、この場合は対象を軽視しているせいか文化人類学の本来の方法論を無視した印象論になる傾向がある。もう一つは生産側(つまり会社)の参与観察調査であって、この場合は生産者の視点をもっているせいか、生産側の能動性に対して消費側の受動性を強調する傾向があるように思われる。二つのアプローチの共通点と言えば、メディアは一方的� ��消費者(読者、視聴者)に影響を与えるという前提であろう。それに、取り上げているメディアに対して決して好意的とは言えない場合が多い。つまり、「分析する側」と「分析される側」は実質的に違うという前提で研究を行って論文を書いている。そういったものを読んでも私は当の「消費者」の実態をまったくつかめないが、それもそのはずである。「消費者」──メディアを受容する一人ひとりの人間──はその研究のどこにも存在せず、主体性のない抽象として推測されているだけであるから。

 しかし、私が狙っているようなエスノグラフィーの方法論に基づいた研究はいくつかあった。その研究を行ったのは社会科学者ではなく、映画・メディア研究を専門とするヘンリー・ジェンキンズや文学を専門とするジャニス・ラドウェイだった。ジェンキンズは「スタートレック」などのSFテレビ番組の「積極的ファン」コミュニティーを、ラドウェイはハーレクィン・ロマンス小説の読者を、参与観察の方法論を使って研究している。ラドウェイはその軽蔑されがちであるロマンス・フィクション読者を尊重し、彼女等にとってそのジャンルはどういう意味を持っているか、彼女等はそのジャンルをどう「活用」しているかを慎重に調べた。

 これらの研究からヒントを得て、私は読者を中心とする、作者や編集者や小売業者も含む少女マンガ・女性向けマンガの「コミュニティー」を参与観察することによって研究を行うことにした。ここでその研究を簡単に紹介するが、これは研究者が距離をおいて対象を上から客観的に見下ろしている研究ではなく、自ら熱心な読者であるにも関わらずそのジャンルをいろいろな角度から批評的に調査しようとする試みであることを理解いただきたい。その最終目的は彼女等(「日本の少女」とラベル付けられる人間)がマンガを「どうしているか」を述べることではない。大量生産される媒体に必ず何らかの形で参加している彼女等を含めた我ら現代人が、そのマスメディアを「どうしているか」という、国際的 に討議されている大きな課題に少しでも貢献することである。


古いメンターを愛する若い女性

 阪神間を中心に14ヵ月にわたったフィールドワークでは、何十人もの女性にインタビューに答えていただいた。グループインタビューも行ったが、1 対 1のインタビューがほとんどで、調査の核となった数人には連続的にインタビューをしたり日誌をつけてもらったりした。インタビュー初回のはじめの数分は相手の様子がぎこちない場合が多かった。彼女が読んでいるマンガについてお話したいという、この外国人の男の人にどう対処すればかわからないから、緊張するのも当然。まずはその子の今までの人生について語ってもらう。そうするとあとでマンガの話になったとき、そのマンガ読書体験の文脈が見えてくるし、相手も喋っているうちにこのなぞの外国人に慣れてくれるわけだ。私は彼女等の人生と直接関係のない全くの「よそもの」と見られたせいか、彼女等は以外と率直でいろいろ話してくれた。人生のなかの大事件、もっとも影響を与えた人々、深い友情、親の離婚や死、 人間関係の摩擦、ライバル、初恋、失敗、成功、将来の夢等々。途中で泣かれたり、こちらまで泣きそうになったこともあった。私が日本人だったら、ひょっとしたら喋るのをためらったのではないかと思う。「この人にこんなことを喋ったら、どう思われるか」と思ったかもしれない。外国人であり異性であり大人であって、いわば究極のよそものだからこそ、心地の良い話し相手だったかもしれないし、そうではないかもしれない。どちらにせよ、私は彼女等の反応に大変満足している。

 マンガの話になるとさすがに「あの作者やあの作品は知らないだろう」と思うらしく漠然としたことしか言わないが、私はけっこう詳しいということに気がつくと驚いたりおもしろがったりする。さらに私は詳しいだけではなく、彼女の好きなマンガや読み方をちゃんと「わかる」ということに気付くと、外国人/現地人、研究者/対象などの区別がほとんど崩れ、二人の読者として、少女マンガは彼女の人生や生活の中、そして私の人生や生活の中でどんな「場」を占めているかを語りあい始めることができる。

 読書と、それから作者や編集者や小売業者との数え切れないほどの会話を通じて、そして私自身の経験を通じて、単なる娯楽を超える読者の少女マンガとの関わり方のいくつかの特徴を見い出すことができた。

  • マンガとの付き合いは文字どおりの長い付き合いであって、読者のライフ・ストーリーという文脈なしにはわからない。
  • マンガとの関わり方──どのようなマンガをどう読むか──は個人の独自性(アイデンティティ)の表現の一手段になることがある。
  • マンガとの関わり方は友人や家族とのあいだの絆の一つになることがある。
  • マンガは自己の経験を解釈する時、形づける時、標準系となり共有のイディオムのレパートリーを供給する。
  • マンガはインスピレーションやカタルシスの源になることがある。
  • マンガとの関わり方は時代の変化に応じて微妙に変わっていく。

 インタビューに答えてくれた人の中には、自分の人生を、読んできたマンガ雑誌別に区切りをつけることができる人が多い。この「読書歴」が日常会話に出てくると、「そうか、あんたはやっぱり『なかよし』だったんだ。あたしは『りぼん』だったよ」というふうに、お互い『りぼん』タイプや『なかよし』タイプなど、どんなマンガ雑誌を読んだかによってカテゴリーにあてはめることも珍しくない。

 しかし、マンガ雑誌の読者層は固定していないため、この分け方は必ずしも世代を超えるものではない。出版社は読者のマンガとの「長い付き合い」を意識して、年令別の読者層を狙う雑誌をいくつも創り、読者が歳をとるにつれてスムーズに次のレベルの雑誌に移ってもらうように工夫する。例えば集英社だったら小学校の頃は『りぼん』、中学校の頃は『マーガレット』、高校の頃は『別冊マーガレット』、大学の頃は『ぶ~け』や『ヤングユー』、結婚したら『ユー』という具合になる。

 しかし、読者には読者の考えがある。女の子の場合はある作者、あるいは何人かの作者に「つく」ことが多い。それに編集者は、作者にヒット作をできるだけ長引かせようとすることが多い。そして作者も歳をとるとより高度なものを描きたくなることも珍しくない。この三つの傾向を合わせるとどうなるか大体想像がつくと思う。読者は歳をとっても好きな作者の好きな作品を手離すのをためらって、同じ雑誌を出版社の計算より長く読み続ける。そして編集者が無視できない、より大人っぽいものを求める厄介な読者層になる。

 だから『りぼん』も数年前から低い年齢層向けの作品と高い年齢層向けの作品を一緒に載せるようになった(そういう意味では『少年ジャンプ』に似てきているとも言えるかも知れない)。この現象によって元々10代前半の読者を狙った少女雑誌がかなり混乱してきている。今の小学生の女の子は複雑な恋愛ものを目にしているから、「恋愛物入門」をテーマにする雑誌を飛ばして、10代後半向けの雑誌を中学校の時から読み始める。


何をenchin意味している

 昔は少女読者に与えられた「行路」は非常に限られていたが、今はその選択肢は実に豊富である。ローティーン/ハイティーンという分け方はほとんど消え去り、かわりに女の子はそれぞれの「好み」に合わせて10代の頃に読む雑誌を選ぶようになった。出版社はその傾向に合わせてよりたくさんの、特定の趣味に合った雑誌を出すようになった。60年代、70年代には「少女マンガ」は「少女マンガ」だったが、今の少女マンガは多様化した日本社会と巨大化したマンガ業界を反映していると言えよう。一人の読者のマンガとの長い付き合いを考える時、この社会と歴史の文脈を無視できない。

 私がインタビューした人たちは10歳から40代までいたが、子供も大人もマンガ作品・マンガ家・マンガ雑誌に関しての好き嫌いがはっきりしている人がほとんどだった。細い線とミニマリストな描き方が好きだという人もいれば、はっきりした線と劇画風の細かいディテールが好きだという人もいる。ある読者はスケールの雄大な歴史物やファンタジー、ある読者は現実的な状況に置かれた「普通」のヒロイン、ある読者は「不良」など主流社会からはぐれた「はみだしっ子」の悲劇を好む。

 こうしたことを考えると、なぜ女の子は男の子よりあるマンガ家に「つく」かわかるはずだ。読者は自分の好きなマンガ家との間に何かの「絆」を感じる。手紙や贈り物をおくる読者もいる。そしてマンガ家も読者とコミュニケーションをとろうとすることが多い。もちろん、もらった一通一通の手紙に返事を書く作者もいるが、そうでない作者でも、マンガの欄外や「おまけページ」に読者に話しかけて感謝の意を表したり自分の近況を述べたりする。少女マンガ家の自画像は大体、だらしなくて不精で無責任でアシスタントや編集者に迷惑ばっかりをかけているが、それでも可愛くて憎めない。そういった描写は読者にその作者の人間らしさを感じさせる。作者も「普通の女のコ」にみえてくる。

 女の子が比較的雑誌より単行本を好むのも、このマンガ家に対する執着が大きな要因であるように思える。雑誌は自分の好きでもない物も含むが、単行本は一人の作者の物しか入っていない。私がインタビューしたベテランの編集者の話によると、女の子は大体自分の好きな作品が3本以上載っていないとマンガ雑誌を買わないらしい。一、二本しか載っていなければ立ち読みで済ませてしまう人も少なくないという(私がインタビューした読者のなかにも、やっぱり同じようなことをいう人もいた)。普段から書店に通っている日本人なら周知のことと思うが、この「立ち読み」は特に10代の女の子が多い。

 少女マンガの好みは友人や家族(特に母親・姉妹)との関係に関わってくる。仲のいい二人やグループはマンガの好みが重なる場合が多い。重ならない場合、かえってその好みの違いによって二人(あるいはみんな)の性格の違いを表す標識として使われることもある。そのうえ、出版社からすればあまり喜ばしくないことだが、女の子は雑誌も単行本も「回し読み」することが多い。回し読みによって女の子は友人、または姉妹や母との絆を固めることがある。そして回し読みの仲間の好みが似てくることも珍しくない。それは、ただ同じものをずっと一緒に読んできたからだけではなく、読んでいるマンガについて話し合って、相手の視点がわかってくるからである。このようにマンガは個人のアイデンティティだけではなく、二人� ��や集団のアイデンティティを表現することもあるわけだ。したがって、その二人組やグループが何かの理由で分裂すると、読書習慣も変わり、その過程によって捨てられるマンガ、あるいは新しく拾われるマンガは、その人の記憶のなかでその時期やその仲間を象徴するほろ苦い想い出となる。

 一緒に読みながら大きくなっていくから、女の子にとって身近なテーマを扱っているから、少女マンガの中に、そしてその周りに、共有される「言葉」──さっき指摘したイディオムのレパートリー──が当然生まれてくる。これはほかならぬ「文化」である。この文化は地方の差異を超え全国的に共有され、一生顔を合わせることのない女の子や大人の女までも一つの「メディア・コミュニティー」に結びつける。もちろん、日本の女性は(好みの違いをおいておけば)同じファッション雑誌や小説を読んだり同じテレビを見たり同じ音楽を聞いたりもする。いうまでもなくそれも文化である。しかし、私の印象としては人間関係に関する主流となるイディオムの大半は、戦後の半世紀にわたり少女マンガという媒体の中で進化してき� ��ように思う。特に、数人の優れた作者(俗に言う「24年組」)が少女マンガに革命を起こした70年代前半以降、その影響力は特に大きいだろう。


 しかし、ここで強調したいのは、マンガが一方的に読者に影響を与えるだけではないということだ。ほとんどのマンガ家もかつて(それも最近)自分のマンガを読んでいる読者と同じような女の子だった。また、少女マンガの内容には、手紙を書いたりアンケートに答えたり、そして最終的にお金をだす「お客さん」である読者の影響も大きい。そういうことを考えると、影響は一方的であるとは言い難い。「人生は芸術を模倣するか、芸術は人生を模倣するか」という問いは答えのない愚問である。

 このようにマンガは自己の経験を解釈する時の手がかりとなるほか、インスピレーションや人生を大きく左右するカタルシスの引き金となることもある。もちろん、これは少女マンガに特有のものではない。しかし少女マンガの読者たちは、藤本由香里氏が指摘しているように普段から「私の居場所はどこにあるの?」という問いの答えをマンガの中から見出そうとする傾向があり、より深く共鳴する可能性もあるはずだ。

 私にはニューヨーク滞在の33歳の女性の友人がいる。彼女は子供の頃はよく冒険もののマンガを読んでいたが、数年前からマンガを読まなくなっていた。だが私と話しているうちにまた興味が沸いてきたようで、私の大切な萩尾望都の「トーマの心臓」を貸してあげた。その話の舞台はおよそ20世紀初期のドイツの寄宿学校(ギムナジウム)で、14歳の少年トーマの自殺からはじまる。トーマは死ぬ前に、自分の気持ちをずっと拒んできたユーリ先輩に一通の手紙を出す。

最後にユーリへ
これは僕の愛
これは僕の心臓の音
君には分かるはず

 ユーリは本当はトーマを愛していた。しかしその2年前にユーリは先輩グループに強姦されたことを恥じて、自分は愛されるに値しない存在だと思い込んでいた。話は複雑だが、かいつまんで言うとこの事件を契機にトーマの愛をようやく受け入れるようになる。

 友人と次に会った時、彼女は私に次のような内容の手紙を渡した。「トーマ」は彼女自身の経験と痛烈な程重なり合ったという。ユーリと同じように彼女も子供の頃に性的虐待を受けていて、やはり自分も愛されるに値しないとずっと思い込んできたが、「トーマ」を読むことで20数年もの間自分の中で押さえ込んできたものと直面せずにはいられなかった。そして最近別れた男性との関係を別の観点から見ることができた。友人に対してより素直に自分のことを話し、人からの愛を受け入れようと思うようになったという。明らかに「トーマ」を読むことによって、彼女はカタルシスを体験した。そのカタルシスは彼女に苦痛も与えたが、それでも、いや、それ故に彼女は「トーマ」との出会いに感謝している。誰しもその 手紙を読んだら心を打たれると思うが、私の場合、それは特に強烈だった。なぜなら私も1987年に「トーマ」をはじめて読んでカタルシスを体験したからである。私の場合はなぜ「トーマ」にそこまで共鳴したか未だにわからないが...

 そのカタルシスを経験して、私は少女マンガというジャンルに、それを知らない人々に伝えたい価値のある何かがあると思った。しかし、今振り返ってみるとその時の私の強い衝撃は当時の私と「トーマ」との間の重なり合いから生まれたのではないかと思う。その重なり合いは彼女のように直接的なものではなく間接的で微妙、しかしそれでも強い何かだった。

 もし「トーマ」に出会わなかったら、あるいは違う時点で読んでいたら私はおそらく少女マンガにそこまで惹かれることもなかっただろうし、ひょっとしたら学者になっていなかったかも知れない。当然、このジャンルを解釈する時、また人々のマスメディアとのつき合い方を解釈する時にも、私のこの経験は大きく反映される。


 よく指摘される少女マンガの"文学性"とはこれのことだったのだろうか。つまり作品と作品を読むその時点の読者との間に響き合いが生まれる場合、その余韻のことこそ"文学性"なのではないか。一般的には"文学性"とは作品に内在しているように言われるが、例えば宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を読んで感動する人が多いとはいえ、必ずしも皆が感動するわけではないだろう。その感動しない人にとっては、少なくとも読んだ時点ではその作品には"文学性"がない。逆に、ほとんどの人が読んでも全く感動しないような「大衆文学」の作品がたまたまその時点の読者とうまい具合に重なり合ってインスピレーション、さらにカタルシスへと繋がることはないとは言い切れない。とは言え、私が今使って いるパソコンの裏に貼ってある注意書きとシェイクスピアの「マクベス」は似たようなものという結論になるわけではない。読んだあと何か残る可能性が高いものと低いものは、ある程度区別をつけることができるだろう。少女マンガの場合、その可能性が高いと言えるのは、作品の内容と読者の実際の生活や経験と重なる部分が多いうえに読者は元々そういった「響き合い」を求めている場合も多いからであろう。文学や美術などの「ハイカルチャー」と大衆メディアなどの「ローカルチャー」の区別にこだわらずに、私たち現代人にとってこれらの媒体はどういう意味を持っているかを調べる価値があると思うなら、私たち研究者も自分自身にとってもその媒体はどういう意味を持っているか、そしてその関わ り方は研究にどんなふうに反映されるかを正直に考えて素直にそれを表現してもいいのではないか。いや、表現する義務がある、とつくづく私は思う。



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