2012年3月12日月曜日

詩と言葉  ◆随想

私がこの世で一番嫌悪する生物
それは…「蜘蛛」。

嫌悪どころか、自分の生存を脅かすほどのあからさまな「恐怖」といったほうが近い。
ただし、生まれつき,というわけではないのだ。

なぜならば、こんな記憶があるからだ。

幼稚園ぐらいの頃、近所にあった桜並木の下を歩いているときに、小さな蜘蛛が上からつつーっと降りてきて、それをこともあろうに平然と掌に乗せて歩いた記憶があるのだ。
それも、「落ちちゃってかわいそう」 などと言って。

その子供が、いつからこんなに蜘蛛を恐れるようになったのか。
それも蜘蛛そのもの以上に「蜘蛛の巣」を恐れるようになったのか。

私にとっての最大の悪夢とは、蜘蛛の巣の出てくる夢である。
必ず、うなされて目が覚めるのだ。

10代の頃によく見た夢のパターンはこうだ。
私はたいてい、洞窟の中か穴の中などに居る。
そして入り口には蜘蛛の巣がびっしりと張っていて、私は蜘蛛の巣によって閉じこめられている。
その気になれば手でかきわけ、壊して脱出できる筈なのだが、私は恐怖で近づくことすらできない。
全身に鳥肌が立ち、心臓が今にも止まりそうである。
蜘蛛の巣の向こうに外界は透けて見えているのだが、私は全身震えが止まらず、あまりの恐怖に冷や汗びっしょりとなる。
叫び声を上げようとするのだが声がうまく出ない。
更に叫ぼうとして力を込める。
くぐもったような音がようやく絞り出させる

・・・・・そして、だいたいその辺で目が覚めるのだ。
全身ぐったり疲れ、まだ恐怖の余韻におののいている。

たまたま横に一緒に寝ていた人によると
私はそういうとき酷く苦しげに、うなされているらしい。

これは私の自己分析によるものだが、どうも、あの夢における蜘蛛の巣は、私を巧妙に支配する「母親」の象徴だったように思う。

この意味を理解していただくには少々説明がいる。

私と母親の関わりはかなり根が深い。
ある時期までは、私は母親の期待を一身に背負って育てられたのだ。

最初は落胆からのスタートだ。

一人目が女児だったので二人目も女児だったことへの落胆。
「また女」
だが私は何かと目立つ子供だった。

まず幼稚園のときに知能テストで、156という突出して高い点が出て周囲一同に驚かれる。
お遊戯会では自然といつも主役。
オルガン教室に通わせればあっというまに1番になる。

次第に落胆は過度の期待に変化する。


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そこにこんな出来事が起こる。
たまたま、そのオルガン教室の教師が芸大出のチェリストだったのだ。
 
彼女は私の音楽の能力に興味を示す。
教師は私がチェロ向きだと言い、チェロをやらないかと勧めたのだ。
言っておくが、幼稚園児に人生の判断能力はない。

今でもはっきり覚えている。
私は話しかける教師の顔など見ていなかった。
私は母親の顔しか見ていなかった。
そしてそこにありありと浮かぶ期待の表情を見て取って、いつのまにか「やる」と答えていたのだった。

ここで私の人生の歪みは決定したようなものだった。

幸か不幸か、私は筋が悪くなかったらしく「師匠」が段々ランクアップしていった。
芸大(高)など寝ていても受かる、と持ち上げられ、母親は完全にステージママのようになった。
母親、というよりも「マネージャー」といった方が近かった。

毎週、泉岳寺のN響事務所や国立音大などへレッスンに通う。常に母親が楽器を持ってお供する。
そして師匠のレッスン内容を手帳に克明にメモして帰るのだ。
自宅でのレッスン時には、公団の狭い賃貸3DKの襖の向こう側で私の練習に聞き耳を立て、師匠のレッスン内容を大声で私に指示する。「そこはこう言った!」などなど。

私はいつも見張られていた。

この頃には私は、日本でも最も「高級」(らしい)なランクの先生にたどりつき、東京芸大か桐朋音大付属高校に進学することが当然という前提の元に師匠の指導を受けていた。
国立音大ピアノ科の助手にピアノを、作曲科の先生のところでは楽典やソルフェージュの勉強に。
そして、芸大は国立であるから通常の学科試験も優秀でなければいけない、という親の妙な理屈のもと、学校の成績も常にトップクラスであることを要求された。

「なんでもできなければいけない」。

私は幸か不幸かそういう親の要求に応えることができてしまったのだった。
それが良くなかったのだろう。

いつも見張られている、と言ったが、今でも覚えている光景がある。

小学校低学年のころ、学校から帰って外で遊ぶときに、自宅の窓に黄色い旗が出たら家に帰らなければいけないことになっていた。それはレッスンの時間のお知らせ、なのである。

なにしろ忙しい小学生であった。

ピアノの練習とチェロの練習で毎日合わせて3、4時間にもなり、その他に学校の宿題や勉強である。
いつも時間を気にしながら過ごしていた。

ストレスは相当だった筈だ。しかし音楽そのものへのストレスではない。
母親の過干渉からくるストレスだったと思う。 
髪の毛をむしり続けてハゲてしまったり、顔の皮膚の一部をむしって傷が治らなかったり、今思えばその兆候は色々あった。いわゆる「チック症」にもなった。


古いメンターを愛する若い女性

「プチ家出事件」もあった。

小学4年生の時である。
たまたま練習の手を休んでいる瞬間に母親が買い物から帰ってきた。
彼女は理不尽にも「見ていないとすぐにさぼる」と怒り出して、それに対して反論をしたらいきなり締め出されたので、私は悪くない、と主張するために家出したのだ。
しかし小学校4年生の悲しさ、どこへ行けばいいかわからず、結局小学校の渡り廊下に座り込んでいたのだった。
今思い出すと、お粗末で笑ってしまう。
その日の宿直は、たまたま担任の教師だった。彼は見回り時に私を発見し、家に連絡し、迎えに来た父親に連れられてあえなく私の家出は幕を閉じた。 教師曰く「犬かと思った」と。

あの夜のことは今も鮮明に覚えている。

帰りの道々、父親(2005年死去)は私を一言も叱らず「星が綺麗だなぁ」などと言っていた。私は黙って涙ぐんでいた。しかしその時も自宅のドアを開けた途端に飛び込んできたのは
「誰がそんなとこまで行けと言った!」
という母親の一方的な怒声だったのだ。

中学生のころは下校後に仙川の桐朋学園に通って、空き教室でチェロのレッスンを受ける。ときには校内で藤原真理さんなどとも遭遇し、母親は「おまえもあんなふうになるんだ」と私に囁きかけた。
大先生に紹介されるまま真理さんの父上(楽器商)から高い弓や楽器を言い値で買わされても嬉々としていた。
母親は有名な大先生に逢えることで興奮していたようだったが私はそれどころではない。
私がソリストになること以外は眼中になかったと思う。

この頃の母親はもう、200%私のステージママだったと思う。干渉も半端ではない。 
しかも気性の激しい同志、強烈な衝突を繰り返していた。
まさに血みどろの対決だったと思う。
「だったら楽器なんかやめろ」と何度も煽られ、そのたび唇を噛んでいた子供の自分を思い出す。
「やめない」と言うのが解っていてかかってくる圧力にキリキリしていた。 

しかし、あまりに追い詰められればいつかは人間は壊れて切れる。
進路決定の頃、私は反乱を起こしたのだった。

いつもの母親の売り言葉にとうとう私は「やめる!」と叫んだのだ。
まさに渾身のレジスタンス。
もうそうなれば互いに後へは引けない。
あとはまさに「血みどろの戦い」が繰り広げられた。

「音楽学校へは行かない。普通高校へ行く。大学は東京外大に行く」
こう宣言した私に、母親は
「うちは趣味で音楽やらせるほどブルジョアじゃないんだから、ソリストにならない奴は習わせない」
と対抗宣言し、私はピアノもチェロもとりあげられたのだった。


子供と男性にどのように対処するか

チェロは見るだけで「心の傷」が疼くのでそれ以来触らなかったが、所詮が副科レベルのピアノはそれからも時折中断しながらも弾き続けてきた。

話はここで終わらない。
その後も母親の 「復讐」 は大学生になる頃まで続いた。

まず、高校受験。

「黙っていても国立付属(芸大付属)に行けたはずなのだから私立などは許さない」
という母親の圧力。(今思えばもの凄い理屈だ。)
そこで寝ていても受かるようにトップランクから1グループ落とす。
だがランクを落としたことで今度はネチネチと母親が私をいたぶる。

高校生の私が何か親と衝突するたびに母親の決めぜりふが飛び出す。
「文句があるなら今すぐ出て行け。
そのかわり親は一切助けないし二度と家にも帰ってくるな。
高校は義務教育ではないんだから。
自分で全部やれないなら親の言うことをすべて聞け」

そして、決定打。

「文句があるなら、おまえにかけた金を耳を揃えて返せ。
金庫の中に明細が入ってるんだから」

ある一時期、私がやみくもに稼いだのは、この頃浴びせ続けられた
「自分で稼げない奴は一切文句をいうな」
という母親の圧力に対する反発が軸になっていたと確信する。
「自分の食い扶持をすべて自分で稼がないうちは自由にはなれない」のだ。

そう。
母親の言うことに反発しながらも、母親自身が17で田舎を単身飛び出してきて、完全自力で都会で生き延びてきた歴史を知っているために言い返せなかった。
本人ができもしなかったことなら説得力はないのだが。

すべての自分の人生の恨み辛みもすべて娘にかぶせてくる母。
報復のつもりか、残っていたピアノも取り上げられたのがこのころだ。

次は、大学受験。

受験日に、暖房横の席にあたって、居眠りしたお馬鹿な私。
おかげで外大は「サクラチル」
受験料を惜しんだ自分は「すべりどめ」は早稲田の商学部。この私が「商学部」。何やるの?…
まさか本命に落ちると思っていなかったので慌てた。
 

「私立なんか許さない。就職しろ」とマジで母親に迫られたが、このときだけはいつも母親に逆らえない父親が、
「早稲田ならお父さん、お金だしてあげてもいいぞ」と ぽそっと一言。
この人は横浜国大建築科を卒業後、文学の夢捨てきれず学士入学で早稲田の仏文に入り直した御仁。小学生の頃に拳をあげながら「ミヤコノセイホク」を歌わされた記憶がある。母校に娘が入ることへの嬉しさを隠しきれなかったのだろう。
こんなわけで、私が一応大学生になれたのは父親のおかげである。

さて。

こんな血みどろの母親との攻防に終止符が打たれ、形勢がやや変わったのは19歳の時だ。


きっかけは、姉の非行だ。
高校の頃から夜遊び、不純異性交遊、果てはシンナーまで、と素行のおかしくなった姉が、就職先で不祥事をおこし、一家がどん底に陥ったという事件があったのだ。 姉の名誉にかかわるので詳細は書かないが、三文週刊誌ネタになりかねないほどの事件だった。 
結果として我が家は経済的にかなり苦しい状態になったのだ。
 
 

ある晩 母親が夜中に台所で泣きながら死にたい、と云う姿を見た。
そのときから私と母の関係が変わったように思う。
母親がそういう弱みを見せたのは初めてだったからだ。

私はバイトで貯めたお金を17万ほど定期預金にしていたのだが、
そのお金は後期の学費に消えた。
その後も塾講師のバイトを目一杯増やして稼ぎまくっては学費をつくった。

失踪した姉の居場所をつきとめて夜中にタクシーとばして繁華街で夜明けを待った時も、憔悴している母親に付き添い励ましたのは自分だった。

ダメだ、ダメだと云われ続けた自分がようやく今、存在を認められている気がした。
その事件から母親が多少気弱になったために、ようやく対等に向き合えるようになったように思う。

その頃を境に徐々に 例の「蜘蛛の巣」の夢は見なくなっていった。

出口をふさぐ蜘蛛の巣は、母親が張り巡らせた娘を支配するための巧妙な罠だったように今では思う。

・・・・・・・しかし この5〜6年だか再び 蜘蛛の巣の悪夢が復活している。
・・・・・・・・・・・・・洞窟、ではないのだが・・・・・

わかっている。 「蜘蛛」は夫。 
いえ、夫と自分の関係性の象徴だ。


★余談★

あとで心理学の本で知ったのだが、
しばしば、蜘蛛は「悪い母親」の象徴として現れるものなのだそうだ。


 
 
 
 
 

 
初稿  2005/8/6

 
 
 

テーマ : エッセイ
ジャンル : 小説・文学



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