アジアで最初にノーベル賞を受賞したロビンドロナト・タゴール(RabindranathTagore) は一九一六年に日本をはじめて訪問した後、日本の旅行についての 「ジャパン・ジャトリ」 (日本紀行) という本をベンガル語で書きました。この旅行の本の中でタゴールは俳句も紹介し、ベンガル語の翻訳で芭蕉の二つの有名な俳句を例とし て挙げています。その俳句は
古池や 蛙飛び込む 水の音
と
枯れ枝に 鳥のとまりけり 秋の暮れです。
ベンガル語の翻訳では
プロノプクル ベンゲルラーフ ジャレール シャボド
または ポチャダール エクタカーク シャロトカール
となっています。
タゴールは読者に俳句を紹介するに当り次のように語っています。「世界のどこにも三行詩は存在しない。しかし、日本の詩人と読者には、わずか三行でことたりる・・・日本人の心は泉水のようにごぼごぼ音をたてない 。湖水のように静かである。」 タゴールの日本紀行は、おそらくインドのことばで書かれた最初の俳句についての紹介をした本だと思います。
インドはたくさんの言語がある国です。そしてそれぞれの言語が豊かで文学的かつ歴史的な伝統をもっています。多くの古いインドの詩型は短くて、深い意味をもっています。たとえば、ヒンディー語のドーハまたはバルウェとか、マラテイ語のオビとか、パンジャービ語のボーリ又はマヒヤとか、タミル語のテルクラルなどがその 例です。サンスクリット語のスートラ (経) も、聖なる教の内容を短い文句で簡潔にまとめたもの、という深い意味を持つ言葉を用いた短い歌と同じものです。このように簡潔な形態の詩のあるものは、俳句に大変似ています。日本での仏教の考え方、または人生に対する禅の教えというものも、インド人の心には異質なものではない のです。インドの詩の内容は、ことばによって直接に表現するのではなく、暗示的に富んだものです。一つの例をあげてみましょう。 1 2 3 4 5 6 7 8 9 ウェ コ エ リ アン ボ ラ デイ アン 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 カ デ ボー ル チャン ダ レ ヤ カ ワンー
これはパンジャービ語のマヒアと呼ばれる形式の詩から取ったものです。これを日本語に訳すると
コーエルが歌っているのに
なぜおまえは歌わない
ああ、いじわるな烏
このもとの詩はたったの十八字です。そして簡潔に表現しています。コーエル (オニカッコウ) はマンゴーの木に花が咲きはじめるころに歌うインドの鳥です。この鳥はあまい歌声をしているということで、大変歓迎され ています。そしてまた、春の季節を伝えるのもこの烏です。一方、聞き苦しい声で鳴く烏などだれも聞きたく無 いでしょう。烏もコーエルも黒い鳥です。きょうはコーエルが歌っています。そして、烏は黙っています。でも コーエルの歌声は若い乙女にとっては嬉しくありません。というのも、インドでは烏が恋人のメッセージをもってくるという伝説があります。だから乙女たちは烏に口を開いて欲しいのです。
インドの現代文学は西欧の近代文学の深い影響を受けています。西欧の文学運動はすべてインドの文学界に波及して行きました。俳句もインドの文学の世界に英文学を通して紹介されたものです。俳句の初期の翻訳者の多 くは俳句の簡潔さを重視しないで、十七文字をもとの俳句にない韻律や説明を自由に加えて翻訳しました。それは西欧の読者に、その翻訳をわかりやすくするためでした。もとの俳句がどのように翻訳されているかをここで一つ例を挙げてみたいと思います。
花の雲 鐘は上野か 浅草か
英語の翻訳では次のようになっています。
A cloud of blossoms
Far and near
Then sweet and clear
What bell is that
That charms my ear
Is that Ueno or Asakusa
これを日本語に訳してみますと
花の雲 遠くて近い 甘く澄んでいる
なんの鐘か 私をうっとりさせてくれるのは
上野の鐘か浅草の鐘か
これではもとの俳句の説明文になってしまいます。もう一つの例を挙げて見ましょう。これは芭蕉の句です。
夏草や つわものどもが 夢のあと
ページ (C.H.Page) による英訳は次のようになっています。
Old battlefield, fresh with spring flower again-
All that is left of the dreams
Of twice ten thousand warriors slain
古い戦場 いまは春の花がまた咲いている
夢のあとに残っているものは
惨殺された二万人の兵士達
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